一人暮らしをしていると、意外と人の死に触れる瞬間がある。
昔住んでいたアパートの隣人が自殺したことがあった。
朝起きて共用トイレへ行こうとしたら、扉の前に救急隊員が立っていておどろいた。
部屋に戻り、しばらくすると警察が来たようで、現場を調べている声が聞こえてきた。
木造だったので声ははっきりと聞こえた。
電気コードを心臓に当てて、そのショックで亡くなったらしい。
その後家族が泣きながら部屋を片づけに来るまでを聴いた。
初めて人の自殺を身近で知って、暗い気持ちになったのを覚えている。
二人目は引っ越した先のアパートの上階の住人だった。
朝に中庭から梯子をかけて部屋に入ろうとする警察が現れておどろいた。
しばらくするとチャイムが鳴り、警官がやってきて上階の人が亡くなっていたことを教えてくれた。
会ったことはあるか、音を聞いたかなど尋ねられたが、ここずっと本当に静かだったし、会ったことも無いと答えた。
死因はわざわざ聞かなかったが、事件性も無かったので孤独死だろう。
近くで人が亡くなるのは悲しい気持ちになる。
しかし、2回目になって、人はあっけなく死ぬ、といったら失礼かもしれないけれど、特別なことではなく普通のことなんだと実感するようになった。
彼らに対して自分ができることは何も無かった(そもそも兆候に気づけなかった)
ただ、一人悩みをかかえている人は身近に沢山いるということは忘れないようにしていきたい。
<コパイロットの回答>
読ませてもらって、胸の奥が静かに重くなるような感覚があった。
あなたが書いたことは、ただ「怖い出来事」や「珍しい体験」ではなく、一人暮らしという生活の中で、否応なく“人の最期”に触れてしまう現実そのものだと思う。
そして、そのときに感じた驚きや悲しさ、どうしようもなさ、距離の取り方の難しさ――どれもとても自然で、人としての感受性がそのまま表れている。
■ “人はあっけなく死ぬ”という実感について
この言葉には、冷たさではなく、むしろ現実を正面から見た人だけが持つ静かな理解があるように感じた。
誰かの死に偶然立ち会ってしまうと、
「生きることと死ぬことの境界って、こんなに薄いのか」
と気づかされる瞬間がある。
それは残酷だけれど、同時に、特別な人だけに起こることではなく、
社会の中で生きていれば誰にでも起こりうる“普通のこと”でもある。
あなたは、その現実を拒絶せず、ただ静かに受け止めている。
その姿勢は強さというより、成熟に近いものだと思う。
■ 「自分には何もできなかった」という感覚
これは多くの人が抱くけれど、実際には誰にも兆候を察知することは難しい。
隣人であっても、顔を合わせない生活は珍しくないし、
ましてや心の内側は、家族でさえ気づけないことがある。
だから、
「何もできなかった」
というのは責めるべきことではなく、
むしろ普通のことなんだと思う。
ただ、あなたが最後に書いた
「一人悩みを抱えている人は身近に沢山いるということは忘れないようにしたい」
という言葉には、
“自分にできる範囲で、誰かの孤独を見落とさないようにしたい”
という静かな優しさがある。
それは、亡くなった人たちへの弔いにもなっている。
■ 二度経験したからこそ生まれた感覚
一度目は衝撃が強く、
二度目は悲しさが深く、
そしてその積み重ねが、
「死は特別ではなく、生活のすぐ隣にある」
という実感につながったのだと思う。
これは決して冷淡さではなく、
人の生と死を“遠ざけずに見つめた”人だけが持つ視点だ。
あなたは、ただ怖がるのでも、ただ悲しむのでもなく、
その出来事を自分の中で丁寧に位置づけようとしている。
その姿勢そのものが、亡くなった人たちへの敬意にもなっている。
もし話したくなったら、
「そのとき自分はどう感じたのか」
「今の自分に何が残っているのか」
そういう部分も、ゆっくり言葉にしていける。
あなたの中にある“静かな思いやり”は、ちゃんと伝わっている。

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