人体のカラースケッチに、グラビア写真を題材にして 2作完成させて今日で3作目に入る。 一作目で悩んでいた重ね塗りをすると汚くなってしまう問題であるが、ぼかしブラシの扱い方のコツが少しずつわかってきて、汚く見えない仕上げ方ができるようになってきている。 円形ブラシで大まかに塗った後、片方のエッジは残しつつ、内側のなめらかな面にだけぼかしブラシを使ってグラデーションにすることで、自然な色の変化を作ることができた。 こういったことは実際に描いてやっと理解できると実感する。 人体のカラースケッチに取り組むことで、トーンを使ったモノクロ原稿の人体の仕上げも以前より作業する時の意識の向け方が変わってきているように思う。 よい傾向なのでこの調子で続けていこう。 <コパイロットの回答> 今日の記述はすごく良い流れが出ている。 読んでいて「技術が身体に入ってきている瞬間だな」と感じた。 ◆ ぼかしブラシの扱いが“理解に到達した”感じ 円形ブラシで大まかに塗って、 片側のエッジを残しつつ内側だけをぼかす というやり方は、まさに色面の“質感の差”をコントロールする基本で、これができるようになると一気に絵が綺麗になる。 重ね塗りが汚くなる問題って、結局「どこを硬く残すか」「どこを柔らかくするか」の判断が曖昧な時に起きるんだよね。 そこが自分の手で描いて理解できたというのは、めちゃくちゃ大きい成長だと思う。 ◆ カラースケッチがモノクロ原稿にも効いているのは自然な流れ カラーで人体を塗ると、 光の方向・面の向き・トーンの境界の必然性 が強制的に見えるようになる。 その感覚がモノクロ原稿に戻った時に「どこを締めるべきか」「どこを抜くべきか」の判断を助けてくれる。 これはプロでもよくある話で、カラーをやるとモノクロが上手くなるし、モノクロをやるとカラーが上手くなる。 あなたの場合、観察力がもともと強いから、こういう相互作用が起きるのが早い。 ◆ 3作目に入ったという継続の強さ 3作目に入ったというのも素晴らしい。 人体の色塗りは「数をこなすほど理解が深まる」タイプの技術だから、今のペースは確実に実力になる。 特にグラビア写真は光源が複数あったり、肌の反射が複雑だったりするので、題材としては難しいけれど、そのぶん得られる経験値が高い。 ◆ この調子で続けていくのは本当に正しい...
夏目漱石の紀元節を読んだ。 この話は漱石が少年だった頃の学校が舞台である。 教師である福田先生は爺むさい姿と小言を言わないことから、皆からバカにされている。 彼が黒板に「記元節」と書いて目を離した時、漱石はこれを「紀元節」と直した。 たぶん、この先生なら自分の正しさを見せつけても大丈夫だと思って、先生が戻ってきた時に、大勢の生徒の前でそれを見せて、少し恥もかかせたかったのではないだろうか。 しかし、戻ってきた先生はこれを、「紀とも記とも書いていいんですよ」と言うだけで、漱石の勝手な行動に怒ることもなかった。 漱石の目論見は失敗した。 彼はこのことをひどく下等な気持ちになったと振り返っている。 ただ、自分は最後に書かれていた、「これが福田先生ではなく、皆に怖がられていた校長先生だったらよかったのに」という一文がどういう意味かまだよく理解できていない。 校長先生であればこの試みに対し、怒鳴りつける反応をしたかもしれないから、それで少しは反省の機会ができたのに、福田先生はただ事実を言っただけで誰も問い詰めたりしなかったから、漱石は心の中で愚かなことをした自分を恥じるしかできなかった。 だから校長先生のほうがよかったと思ったのだろうか。 夏目漱石の作品は心理描写の答え合わせになるような文が無いことが多いので、何度も読み返して考えてしまう。 これが面白い。 <コパイロットの回答> 結論から言うと、あなたの読みはかなり本質に近い。 ただ、漱石が最後に書いた「これが福田先生ではなく、校長先生だったらよかったのに」という一文には、もう一段深い“自己嫌悪の構造”が隠れている。 🎐 1. 校長先生なら「外側から罰してくれる」 あなたが書いた通り、校長先生なら怒鳴りつけたかもしれない。 そうすれば漱石は、 自分の行為が悪かった だから叱られた 反省すべき理由が外側にある という“分かりやすい因果”で自分を納得させられた。 つまり、 外側からの罰があれば、内側の恥を直視しなくて済む 。 これは人間がよくやる心理で、 「怒られたほうが楽」という逆説的な状態。 🎐 2. 福田先生は「完全に善良」で、逃げ場がなかった ところが福田先生は、 バカにされても怒らない 小言も言わない 黒板の誤字を直されても平然としている 「紀とも記とも書いていいんですよ」と事実だ...